二葉小学校に地域の方々が利用できる「地域交流室」という部屋があります。
そこに1枚の肖像画があるのをご存知でしょうか?
『郷土の先覚者 小川五兵衛』とあります。
調べると小川五兵衛さんは少なくとも二人いらっしゃることが分かりました。
ひとりは、江戸中期に紫雲寺潟の干拓に貢献した方。
新発田市のホームページNo.002 竹前権兵衛・小八郎兄弟と小川五兵衛によると
その昔、北越後に紫雲寺潟(塩津潟)という大きな湖があり、湖の周りには湿原が広がっていました。そこは、雨が降るたびに洪水となり、人が村を作って住むのはおろか、お米の作れるようなところではありませんでした。
竹前兄弟は、信州(現・長野県)高井郡米子村の出身で、私財を投げ打って紫雲寺潟の開発に尽力した人物です。
小八郎の死や資金難など、さまざまな苦難がありましたが、大庄屋小川五兵衛の参入もあり、享保19年に事業は完了。かつての湿原には2000町歩の新田が生まれ、今日の北蒲原の穀倉地帯の礎となりました。
詳しくはこちら竹前権兵衛・小八郎兄弟と小川五兵衛(PDF)
平安時代ころの大地震で陥没したところが巨大な湖となり、そこが紫雲寺潟(塩津潟)と呼ばれていました。
享保 7 年(1722)、大江戸日本橋にとつぜん幕府の高札が立ち、農民や町人資本を
含む広い一般公衆に、全国の新田開発を呼び掛けたもので、徳川八代将軍吉宗による享保
の改革の始まりでした。寛永の大飢饉の教訓で食糧難を克服し、財政も立て直したいという狙いがあったそうです。
そこで名乗りを上げたのが、鉄砲の玉薬に使う硫黄を幕府に収めて財を成した信州(現・長野県)高井郡米子村(現・須坂市)の竹前権兵衛・小八郎兄弟でした。財産をすべて開拓資金にあてています。
しかし、もともとよそ者の彼らにとって、新発田藩・新潟湊(長岡藩)・幕府の利権がらみのデリケートな問題は想定外なもので、なかなかうまくいきませんでした。
ここで、小川五兵衛さん。彼は道賀新田か島潟の大庄屋でした。なかなか進展しない阿賀北の新田開発を竹前兄弟の支援をすることで打開しようと、新発田藩・新潟湊(長岡藩)・幕府とわたりあって成功させた立役者として、八面六臂の離れ業と評価されています。この方のおかげで、越後平野の豊かな耕地ができたといってもいいでしょう。
もうひとりは、幕末維新期の村役人として活躍した方。
小川弘
没年:明治3.7.14(1870.8.10)
生年:文化13.12(1816)
幕末維新期の村役人,勤王家。字は道甫,号は心斎,通称は五兵衛(五平とも)。越後国蒲原郡鳥潟村(新潟県新発田市)の庄屋の家に生まれる。はじめ儒学を新発田藩儒丹羽思亭に学び,のち安積艮斎に入門。18歳で庄屋を継ぎ,天保飢饉の窮民救済,加治川の治水,真野原(新潟県紫雲寺町)の開拓に功があった。戊辰戦争の際は,奥羽越列藩同盟側の新発田藩を新政府側に転換させるのにあずかって力があり,また長岡城進攻の新政府軍が大夫浜(新潟市)に上陸すると,軍の便宜をはかって作戦の有利な展開に寄与した。<著作>『北越春秋』『国邑誌』<参考文献>『勤王者調書類』(『新潟県史』別編3),『新発田市史』
(中村辛一)コトバンクより
もともと新発田藩は十代藩主溝口直諒公のころからバリバリの勤王思想。
庶民にもこの学派を奨励したそうです。
ちなみに、新発田藩儒ってのはお抱えの儒学者で、後に丹羽思亭(丹羽伯弘)は藩命で江戸に遊学したとき違う学派に鞍替えしたため、その職を免ぜられ私塾で教えました。そこで大倉喜八郎が学び、丹羽思亭の援助を受けて江戸に出たという話です。
おそらく肖像画は時代が近い後者の方ではないかと思いますが、いずれにせよこの絵をきっかけに地元の偉人を知り、いまの豊かな大地に感謝する心を育むことも大切ではないでしょうか。